どうも、最近やりたい事が多すぎて楽しい寝不足状態の西野竜平です。
先に断っておきますが、「後ろ向きな自死は回避してほしい」という思いで綴ります。
そもそもなんでこんな記事を書こうかと思ったのかと言いますと、一昨日父親の知人が亡くなって、「そういえば自分も自殺したいなぁって考えたことあるな」と思って、警視庁のウェブサイトで自殺者数のリストを見てみました。
今年もう1万人も自殺されているみたいです。
どういう人でどういう気持ちでどういう事情で自殺に至ったのか、何も知らないのに「悲しい」「なんという事を」「自殺はいけない」なんていう無責任な感情は持ちたくはありません。それに「頑張れ!」という無責任な圧程怖いものはありません。
何故自殺をしてしまったのだろう。
一つの仮説として、「褒められたかった」のではないかな。と思います。決して「褒められる為に自殺をした」のではなく、「褒められなかった」「認められたかった」、つまりそれらが叶わず、辛くきつい状態が続いた結果なのではないでしょうか。
私の同級生や知人でも、学校生活では優等生。または活発で社交的だったのに、社会人となり、学校と社会の現実のズレを知り、自分が今まで与えられてきた「褒められてきた」「認められてきた」「好かれてきた」の3つが総崩れを起こしてうつ病に陥ったのでは?と感じられる人が何人もいます。
「褒められたい」と感じる人が殆どだと思います。しかし、それだとプレッシャーや高い期待値からの落下。また、理想と現実の裏切りを大きく・重く感じてしまう事でしょう。
よって、人は「褒められたかった」と感じながら自殺をするのではないでしょうか。
また、「他人に認められたかった」と感じるのでしょう。
どうすれば自殺者が減るのでしょう。
「自殺はいけない!」「頑張れ!」「良い事あるさ」はあまりに無責任だと思います。そういう事を言う人は自殺者に対して関心がないのではないか、とも思う程に無責任だと思います。
表面的に「褒める」「認める」も感情に敏感な人が陥りやすい自殺ですから、それも難しいでしょう。
私の中で幾つかの結論があるのですが、
- 自分自身を「褒める」「認める」事が大切だと思います。
- 自分自身が他人を「褒める」「認める」事が大切だと思います。
私はキリスト教徒ではありませんが、「求めよさらば与えられん」という言葉がありますが、これは、一方的な話でないと考えます。「求める前に与えよ」が前提にあると思うのです。
これが「褒めあう」「認め合う」だと思うのです。
自殺をもし考えている方は、この事を考えてみてはいかがでしょうか。少し楽になれると思います。
ただ、私は決して「大まかな括りでの自殺」は否定はしません。将来的に「やりきった!」という感じで、植物状態や大病で苦しみ続ける延命などを回避する為に前向きに自死はしたいです。しかし、法律上認められないので、私もいつか病気で苦しんで苦しんで死んでいくのかな、って悲しく思います。